考え、そして学ぶということ~その参~

前回の続き。

学習意欲の低下の要因として、子どもたちを取り巻く環境、そして、合格至上主義の下に学びが単なる「手段」となってしまったことを挙げた。「人は何のために学ぶのか」「学びの意義・価値とは」。ここでは自分なりに思うところを。

「どうして勉強しなければいけないの?」
「理科の化学式とか歴史の人物とか、これを覚えて何かの役に立つの?」

子どもたちがよく言うことだ。親や学校の先生、また塾の先生、大人はそれに対し「将来のため」とか「可能性を広げるため」とか答えることもあるだろう。決して間違ってはいないけれども、ここをもっと深く考え、子どもたちには答えたい。少なからず「教育」に携わっている限りは。

化学式や歴史上の人物を覚えたところで、それが社会で直接的に役立つ場面というのは希有だろう。では、「直接的に役に立たない=必要ない・無価値」か?そんなことはないはずだ。役に立つか否かで物事を判断するのではなく、そこに自分なりの価値や意義を見出すこと。仕事においても、今自分のしていることが役に立つかどうか半信半疑のまま取り組む者よりも、金銭以外にそこに自分なりの価値や意義を見出し一生懸命取り組める者の方が会社に貢献できる。前者は惰性的に日々を過ごし、不平不満を漏らしながら非生産的な日常を送る。一方、後者は、自分のしていることに価値や意義を見出しているが故に前向きになれ、生産的・建設的に日常を送ることができるはずだ。勉強も然り。「テストに出ないからやらない」と勉強しないための言い訳をつくる。難しい問題に直面すれば「できなくても困ることはない」と困難からすぐに逃げ出す。それではいけない。今している勉強が果たして役に立つかどうかではなく、自分自身でそこに価値や意義を見出せるように努めることが大事だ。

価値や意義を創造していける者は強い。勉強は決して合格するためだけの単なる手段ではない。そんな想いが根幹にある。だからこそ、CLEARが目指す学習指導とは?教育とは?たかが一塾講師が教育を語るなどというのはおこがましくも思うけれど、それが信念であり核でもある。次回はその辺について、熱く厚く(?)語りたいと思います。

続きはまた後ほど。

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