考え、そして学ぶということ~その弐~

前回の続き。

子どもたちから学ぶ意欲を奪ってしまったのは一体何なのか。

小中学生の保護者様は30代後半から40代の方が多いと思う。1990年代後期、すでにバブルが崩壊しているこの頃は、18歳人口がピークを迎え、大学受験の競争率は軒並み高く、1浪や2浪は決して珍しくないという時代だった。誤解を恐れず言うならば、いわゆる「受験戦争」の真っ只中。今の小中学生の保護者様は、まさにこの時代を経験されている世代だ。

この時代を経験されている保護者様の中には、やはり「学歴至上主義」に感化されている方が多い。無意識のうちに「偏差値の高い学校=良い学校=約束された将来」の構図が出来上がっている。我が子を「少しでも偏差値の高い学校へ」と思う。その時代を経験されているのなら、こう思うのも至極当然なことだ。しかし、自分自身が経験したような受験戦争は我が子には経験させたくない、とも思う。その結果としてもたらされるものが、「合格至上主義」なる考え。

そうなると、大学受験はもちろん、高校受験のときですら、受験に必要のない勉強は極力排除し、合格さえできればいいという価値観が生まれる。そして一部の学習塾(・・・というか大手はほとんど)でも、そして学校でも、そんな保護者様の要望に応えようと、受験に必要のない教養や知識はある意味「無価値」とみなしていく。

このような合格至上主義的な考えが、子どもたちの間にも浸透していき、受験に必要か必要でないかという基準だけで学びの範囲が限定され、学びそのものが受験に合格するためだけの「手段」となっていく。学びそのものの意義や価値を伝えられない大人たち、そうして、学びそのものに意義や価値を見出せない子どもたち、そこに問題があるように思う。

将来的に「なりたい自分像」をじっくりと考えさせることなく、ただ「良い高校・良い大学」だけを目指させては、「手段」としてしか学びをとらえていない子どもにとっては、「合格=ゴール」となり、その後の人生の目的を見出せなくなる。何となく学生生活を送り、無目的に近い状態で社会人になってしまう。合格はゴールではなく、むしろスタートだ。新たなスタート地点として、次なる目標や目的に向かって気持ちを新たに邁進できるようにあるべきだ。それが「生きる力」であるはずだ。

「何のために学ぶのか」
「学びがもたらしてくれるものは何か」
単なる手段としてではなく、学びそのものの意義や価値を伝えることなくして、学習意欲の向上は難しい。むしろ「脱ゆとり」になって久しい今、学習内容の難しさから意欲はますます低下しかねない。

そのような傾向を受けてか、教育現場では意欲を重視する風潮にある。しかし、意欲そのものが評価基準の一つとして一定の幅をきかせれば、それもまた手段となり得てしまう。単なる手段ともなれば、また・・・。

学びを単なる手段とするのではなく、また、「意欲が大事」と評価基準にするのでもなく、その意義や価値をしっかりと伝えることこそが、結局は意欲そして学力の向上につながるのではなかろうか。

続きはまた後ほど。

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