なぜ勉強しなければならないの?

先日の中学生の授業中、ふとした会話の流れから、「どうして勉強しなければならないの?」というような話題になった。

中高生ぐらいなら、誰しも一度は考えることだろうなぁと思いながら、子どもたちの会話に耳を傾ける。「国語や数学は論理的思考力を磨き、理科は現象を科学的に捉える力を身につけ、社会は時間的・空間的に世の中を考察できる目を養う…」とは大人になってみればそういうものだなと分かっても、子どもたちにも同じように理解してもらうのはなかなか難しい。なぜならまだ経験が浅いからだ。だから、歴史の年代や理科の化学式、関数y=ax+b…など、将来的にどれだけ役に立つのだろう、と疑問に思うこともあるはずだ。かく言う俺もそうだった。確かにこれらの知識や技能は、実社会で直接的に役立つことは希有だろう。けれども…だ。

では、なぜ学ぶのか。
ありきたりな表現ではあるけれど、一つは、自身の可能性を探るor広げるためだろう。好きor嫌いではなく、適正or不適正を自身の体験をもって見極めていく。数字やデータを扱うことに長けている、人とのコミュニケーションに長けている、研究者に向いている、人に何かを教えることに向いている、モノ作りが得意、身体能力に長けている…などなど、トコトンやってみなければなかなか分からないものだ。そして、もう一つは、やり抜く力を身につけるためだ。途中で投げ出すことなく、自身の歩幅で、きっちりと事を為す力は、生きる力でもあるだろう。だから、学ぶこと=生きること、でもあるように思う。自分のやりたいことだけをやって生きていくことはできない。やりたくないこともやらなければならない時もある。苦しくとも、ここ一番のときにグッと踏ん張れる子は、やはり強い。

適正を探りながら、たくましく生きていく力。
周囲に流されず、環境のせいにせず、自分自身で決めきり、自覚をもって実行し、時に振り返り、改善していく力。
そんな力を磨くために学ぶのではなかろうか。

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