「考えない子どもたち」に親ができることとは

近年、学習指導の現場でとても気になることがある。それは、「子どもたちが考えない」ということ。今回は、この考えない子どもたちが増えている現象について、考察してみたい。

◆増えている「考えない子どもたち」
日々指導していて感じることは、今の子(というと語弊があるかもしれないけれど…)は、ちょっと難しく、粘り強く考えなくてはいけない問題に直面すると、途端に「分かりません」とすぐに匙を投げがちだ。白紙に近い状態で宿題を提出してみたり(CLEARにはいません!)、「分かりません」と諦めるまでの時間も驚くほど短かったり(これもCLEARにはいません!)…。「本当に考えたの?」と問いただしたくなる程、実にあっさりとしている。そうは言っても、そんな子どもに迎合しようとしてしまう大人にも問題があるけれど…。

◆子どもたちはなぜ考えなくなったのか?
これはどうしたことだろうか。普通は、問題が分からないとなると、少し気恥ずかしく感じたり悔しく感じたりするもの。そして、その恥ずかしさや悔しさが、成長へのモチベーションや意欲喚起につながると思うのだが、それが最近の子どもたちからはあまり感じられない。分からなくてもそれほど気にしない。プライドがないのか、ギブアップが早い。粘らない、足掻かない、泥臭くないのが、今の子どもたちの特徴のように感じる。少し前の「ゆとり教育」が子どもたちから奪ってしまったものは、知識や教養ではなく、ここ一番グッと踏ん張り、前進・向上しようとする心なのかもしれない。
「情報社会」の影響?
それはやはり、この便利な世の中。情報社会がもたらした弊害ではなかろうか。ググればすぐに答えが出てくる時代。インターネットで検索すれば、すぐに何でも答えが出てくる。わざわざ考えたり悩んだりする必要もなければ、そんな時間も無駄とみなされるのが常なのかもしれない。
誰かがどうにかしてくれるから?
すぐに諦めてしまうというのは、「誰かがどうにかしてくれる」という思いの表れではなかろうか。少子化で子どもの一挙手一投足まで大人の目が行き届く時代。今までは子どもの力で解決していたことまで、今では大人がすぐに解決してしまっているのが現状。「自分がやってしまった方が早いから」と親がやってしまったり、「失敗しないように…」と親が先回りしてしまったりする気持ちも分からなくもないけれど、行き過ぎるとそれは経験や学びの機会を奪ってしまうことになる。

◆思考力を身につけるため親にできること
子どもたちには、出来ないこと、難しいことにチャレンジして、出来なかった昨日までの自分を乗り越えていく、そんな力強く生きる力を身に付けて欲しいと心から願う。数学の問題が、実際の世の中で直接的に役立つのかと言われたら、答えはNoだろう。これは何も数学に限ったことではなく、歴史の年号も然り、理科の化学式も然り…。でも、あれこれと調べたり粘り強く考えたりする力、つまりは、課題を乗り越える力、問題を解決する力は、その子の生き抜いていく力につながるはず。

◆親にも子どもを見守る・見届ける勇気が必要
その力を身に付けるには、前述したように、親は子の先回りをし過ぎないこと、温室育ちをさせ過ぎないことだ。例え、我が子がこれから失敗することが分かっていたとしても、それを受け止め、見届ける勇気が必要だ。子どもが失敗から何を学ぶか。傷つき涙する日もあるだろう。でも、失敗したのは自分。そこから、自分の力で立ち直らなければいけない。親としては、その時のフォローの仕方で、その後の子どもの成長が変わってくる、まさに局面であると思うし、親の力量が最も問われるところなのかもしれない。

◆考えないままではいけない!思考するからこそ「人」
果たしてこのままで良いのだろうか。答えはNoだ。将来的にはAIやロボットが人に代わって仕事をするであろうと言われている時代。人は働くロボットを管理していれば良いだけの時代。全ての計算や問題処理はコンピュータが行ってくれる。でもそれで、人の真の幸福が得られるのだろうか。「出来ることだけやっていればいい」「辛ければやらなくていい」では、人として何も成長しないし、何かにチャレンジして成し遂げた時に得られるあの素晴らしい達成感や充実感、幸福感を得ることもない。ただ食べて寝るだけが人間ではなく、頭で考えてさまざまな感情を持つからこその人間だ。

◆考える機会が少なくなるからこそ思考力が求められている
ロボットやAIの進化により、ますます考えることを必要としなくなるからこそ、教育界では二言目には、思考力×2と声高らかになっているのではなかろうか。そんなことを想いながら、日々子どもたちと真剣勝負をしている。

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