学力格差の現実

職業上、同業の塾講師や教員の方とお話しする機会があるのだが、どの方も口を揃えて言うのが、

「子どもたちが年々できなくなってきている。」
「できる層がだんだん減ってきている。」

という類のもの。もちろん、上位層は一定数いるのだが、それが少なくなってきて、これまで中間層とみなされていた子が下位層になってきているという。そう、二極化現象だ。

とにかくここ数年は学力格差の著しい広がりを実感しているのだが、そう感じているのはどうやら自分だけではないようだ。やはり“脱ゆとり”に舵を切ってからは、質量ともに学習レベルがアップしたため、そのレベルについていけない子が大幅に増えてきている。特に2020年度からの小学英語の教科化、それに伴う中学英語の難化でそれが顕著であるように思う。

いわゆる“ゆとり教育”の最たるものは、2002年から2011年における義務教育過程なのだが、その頃と比べて、明らかに学力格差の広がりを感じざるをえない。確かにゆとり教育の内容は現在のそれと比べるとはるかに易しかったが、それゆえに格差もそれほどなかったようにも思う。でも、現在のこの格差はそれだけによるものかというと、そこには疑問がある。それは以前にこちらの記事でも述べたとおりだ(厳しい指導はNG?時代の流れに想う)。

主体性第一、主体性ありき。一にも二にも主体性が重視されるのが今の評価の在り方。また、一定の強制力や厳しさをもって学習に取り組ませるのができにくいという時代の流れ。一昔前であれば、学校や塾の先生が“オシリヲタタイテ”でもデキナイ子を最低限の学力レベルまでは引き上げられたのだが、厳しさや強制力が敬遠される今の時代においてはそれが難しい。ともすれば極論ともいえる「やる子はやるし、やらない子はやらない」が良しとされてしまっている風潮すら感じる。だから、一部のデキル層はグングン伸びていき、それ以外の層はどんどん置いていかれ、やがて“デキナイ層”へとなってしまう。“デキルorデキナイ”で単純に線引きするべきではないのだが、ここは敢えてそう表現させてもらう。指導現場では驚くほどの学力の低さを目の当たりにすることもしばしばなのだ。

学習レベルの難化、主体性重視の指導。

個人的には、これらが今の学力格差の主たる要因であるように思う。とはいえ、「そういう時代なんだから仕方ないよね」であって良いとは決して思えない。ゆえに日々葛藤。
どこまで頑張らせるべきか、
どこで線を引くべきか…。
ここは学習塾。学力向上が責務。公教育ではなかなかできないことも、学習塾ならできることもあるはずだ。ある程度の厳しさや強制力をもって子どもたちの指導に当たらねばならないと強く思う。

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