厳しい指導はNG?時代の流れに想う

先日、元プロ野球選手のイチローさんが、旭川東高校で選手指導として参加されていた様子の記事(「スポニチ Sponichi Annex」)を拝見した。思うところがさまざまあったため、以下にその記事を抜粋。

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イチロー氏
「指導する側が厳しくできない」時代の流れ

「酷だけれど…自分たちで厳しくするしか」

談義では、学生野球を取り巻く指導の環境についても語った。「高校生で自分を導くのは難しい。でも、結局自分しかいなくなっちゃう。だってそういう存在いないでしょ。ということは自分に厳しくせざるをえない。自分を高めていこうと思ったら。自分に厳しくできる人間、中にはいますよ。そうするとどんどん自分を厳しい方に持っていく、厳しい道を選ぶ、それは若いうちにしかできないこと。でもそれを重ねていったら、大変で挫折することもあると思うけど、そうなれたらめっちゃ強くなる。でも、導いてくれる人がいないと楽な方に行くでしょ。自分に甘えが出て、結局苦労するのは自分。厳しくできる人間と自分に甘い人間、どんどん差が出てくる。厳しくできる人間はどんどん求めていくわけだから。うまくなったり強くなったりできる。求めてくる人に対しては求められる側もそれはできる。でも求めてくれなかったらできないから。でも自分を甘やかすことはいくらでも今できちゃう。そうなってほしくない。いずれ苦しむ日が来るから。大人になって、社会に出てからも必ず来る。できるだけ自分を律して厳しくする」。高校生とはいえ、自らを追い込み挫折も味わって強くなると説いた。

チームについても「本当はこれ言いたいけどやめとこうかなってあるでしょ。でも、信頼関係が築けていたらできる。おまえそれ違うだろって。いいことはもちろん褒める。でも、そうじゃない。言わなきゃいけないことは同級生・先輩・後輩あるけど…1年から2年に言ったっていいよ今は、大丈夫。そういう関係が築けたらチームや組織は絶対強くなりますよ。でもそれを遠慮して、みんなとうまく仲良くやる、ではいずれ壁が来ると思う」と述べた。

また「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいなるかな。僕が初めて高校野球の指導にいったのが2020年の秋、智弁和歌山だね。このとき既に智弁の中谷監督もそんなこと言ってた。なかなか難しい、厳しくするのはと。でもめちゃくちゃ智弁は厳しいけど。これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね。迷ったときに、この人ならどう考えるんだろって存在は、そんな自分で整理してこれが正解だと思うっていけないですよ、なかなか。かといってじゃあ友達にそんなこと言ってさ、それも違うでしょ。どうしてる?迷ったとき。誰に相談するの。自分の中で整理して進むしかないの?どうであってほしいと思う?厳しくしてほしいって子もいるでしょ、中には」。自主性や褒めることを重んじる教育の流れの中で、厳しく指導することのさじ加減の難しさを指摘し、高校生の心中を慮った。

「自分たちを尊重してくれるのはありがたいんだけど、分からないこともいっぱいあるからもう少しほしいんだけどってない?あるよね」と語り、「これはなんかね、高校野球というよりも大きな、もうちょっと大きな話になっちゃうね。でも自分たちで厳しくするしかないんですよ。ある時代まではね、遊んでいても勝手に監督・コーチが厳しいから全然できないやつがあるところまでは上がってこられた。やんなきゃしょうがなくなるからね。でも、今は全然できない子は上げてもらえないから。上がってこられなくなっちゃう。それ自分でやらなきゃ。なかなかこれは大変」と様変わりした現代では、選手がより自身を律することが求められる過酷さを指摘した。

「スポニチ Sponichi Annex」より

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塾という学習指導の現場でも、子どもたちを取り巻く環境はこの十数年で随分と様変わりした。イチローさんの言われることは肌で感じている。学習塾でさえジレンマを抱えているのだから、学校はその比じゃないだろう。子どもたちに何も言えない、言ってはいけない空気感…。想像に難くない。

厳しい指導はこの世からなくなっていく?

最近では過去に行っていた厳しい指導がパワハラとして認知されるケースが多い。例えば運動部アルアルだが、「ミスしたらダッシュ10本!」といった光景がかつてはよく見られたものだ。けれども今ではそれもパワハラだと言われてしまう可能性も。
もちろん指導する側も、「上達してほしい」「出来るようになってほしい」というさまざまな想いありきで指導しているものの、その一部で行き過ぎだと感じる子どもも大人も増えているのが現状だろう。
世の中全体が、子どもたちの自主性や「褒めて伸ばす」を重視する社会に移り変わっていく中で、この手の指導法はますます減っていくのかもしれない。ただ指導現場で実際に子どもたちと関わっていると、厳しさに接する機会や叱られるという経験が著しく少なくなったためか、近年は打たれ弱い子が急激に増えたようにも感じる。まぁそうは言っても、今の大人も子どもの頃は、当時の大人にそう思われていただろうし、それこそ戦中戦後のような、厳しい時代を生き抜いてきた昔の人からすれば、今の時代そのものが“生ぬるい”時代に映るだろうけど。

厳しい指導で伸びた子も山ほどいる

一方で、スポーツや勉強で厳しく指導されることで伸びた子どもたちも山ほどいる。そういう雰囲気があったからこそ頑張れた人も多いのではなかろうか。
厳しい指導によって、自分の力だけではどうしても頑張れないような子も一定のレベルまでは上がり、結果として全体のレベルが上がっていく。特にチームスポーツは全体のレベルアップが必要なため、なおさら厳しい指導が時には有効だ。
勉強も同じ。半ば強制的にでも机に向かうことで、自分だけでは到底できなかったこともできるようになることも多々ある。宿題がある、テストがある、目の前に厳しい先生がいる、というような、いわゆる適度な強制力や「場の圧」というのは必要ではなかろうか。くれぐれも誤解してほしくないのは、皆が皆その必要があるのではなく、自らを律することができ、なおかつ主体的な姿勢のある子には、強制力は不要。あくまで、そういう姿勢が著しく欠けている子に限ってということ。

自律ができ主体性ありきの時代

とはいえ今回のイチローさんの話にあるように、現代では厳しくされる環境がどんどん減っている。厳しい環境でなければ頑張れないような子にとっては、自らその環境を作っていくことが必要になってくる。つまり、自らを律して、主体的に考え、行動することが、何事においても伸びていくための前提になっていく。
そのためには、早期から子どもたちに自分の意志を持たせるような経験や、自分を律する練習をさせていく必要があるように思う。高校、大学、社会人と、年齢が上がれば上がるほど個人の自由裁量の機会が増える(もちろん自己責任ありき)、つまりは自らを厳しく律する場面が減っていくからだ。

格差は広がる?

結果として、自律性や主体性の備わっている子は、青天井のごとく伸びていくだろうし、一方、そういうものが備わっていない子は置いてけぼりにされかねないのがこれからの時代なのかもしれない。かつてはそんな後者の子どもでも、指導する側が引っ張り上げたものだが、今はそうじゃない、というか、それができにくい風潮にあるのはこれまで述べてきたとおり。それこそ今回の中1定期テスト結果からも、極めて厳しい状況にある子どもたちがかなりいるが、自分の力でどうにかしようとしなければ、この危機を脱するのはなかなか難しいのが現実だろう。いわゆる格差なるものはますます広がっていくのではなかろうか。

とはいえ正解は、ない

厳しい環境、主体性に任せる環境、どちらが正しくてどちらが間違っているかは分からない。伸びていく環境というのはいずれも子どもによって違うものだ。また、厳しさを是とするも非とするも、時代の流れによるものだろう。ともすれば、今の価値観で昔を語るべきではないし、逆に昔の価値観で今を語るべきでもない。今のやり方が正しいか間違っているかというのは、もっと後になってみないと分からないもの。だからこそ、今、正しいと思えることを信じ、それに邁進するべきだ。

仰々しくなってしまうけれど、だからCLEARは開校以来、一貫した指導理念・方針を掲げていて。一言一句変えていない。想い、初心を忘れぬようにしたい。

そんな想いを抱きつつ、
今日も子どもたちと対峙する。

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